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ペルー旅行記 H19・11編


1、帰国第一声


クスコ メルカド(市場)にて
 結構波乱もありましたが、昨晩無事帰ってこられました。

昨日の就寝は夜11時で、時差の関係で体は昼夜逆転の朝の9時のはずでしたが、読みかけの遠藤周作を寝床で読んでいたら眠くなり、そのまま眠ってしまいました。
昨日のリマ→アトランタの7時間の飛行、タイトな乗り継ぎ2時間、アトランタ→成田の14時間の飛行が相当体にこたえ、疲労困憊状態が逆に時差ぼけ解消に役立ったようです。

今朝はさすがに午前4時半に目が覚め、えいままよ、とそのまま起きてしまい、元気に旅のあとかたづけや、こうして書き込みをしています。

皆様にご報告したいことが山ほどあるのですが、なるべく早く「ペルー旅行記H19・11編(第3次旅行記)」を連載していこうと思っています。

今回はケーナ製作者の工房(バンブーの材料状態からそれを作り上げるまでの一部始終をご教示・見学できたのは望外の幸せでした)とチャランゴ製作者の工房をそれぞれ1箇所づつ訪問、見学、懇談させていただきました。他にケーナ製作者の方3名とお話をすることができました。

また、(フォルクローレ関係の)楽器店も随分見てまわることができ、かの地でのフォルクローレ事情の実際を垣間見た気がいたします。

クスコ近郊のピサック村の音楽、舞踏一家を訪問し、演奏や踊りを我々だけのために(正確に言うと私と同行のT君、運転手のホルヘ氏、日本語通訳のジミー氏の4名)していただいたことは、現地での実際のお昼の食事(キヌアスープとゆでジャガイモ)を振舞われたこともふくめ、恐縮の至りで、得がたい体験、まるでミニ「ウルルン滞在記」のようでした。

旅の道れ、愛用のケーナは、「ふるさと」へ連れてきてもらいよほど嬉しかったのか、旅の郷愁をなぐさめるかのように、よく鳴ってくれました。
その導きか18本ものケーナを呼び寄せてくれたり(今回の旅行で購入した総本数、お陰でペルー出国の際重量オーバーでちょっとパニックになりましたが)
再々訪したマチュピチュのインカ道トレッキングではケーナ用バンブー(節間130センチはあろうかというママケーナが作れそうな)をみつけたりとか、、、、。

話せばきりがないので今日のところはこれくらいです。

画像は、下の書き込みでT君が書いている(クスコのホテルから彼が書き込んでいましたようで)クスコのメルカド(市場)にある「布地」屋さんのおかみさんとの2ショットです。
ここでは、ケーナのストラップ用の「アンデスふうの紐」を買いました。
今扱っているのはプーノのメルカドで買ってきたそれで、新バージョンでクスコのストラップ紐として、ラインアップに付け加えようかと思っています。

(この稿2007年12月 2日 記す)

2、マチュピチュ・インカ道のバンブー

画像は上の「帰国第一声」で書いた、マチュピチュのインカ道トレキングで見つけた「立ち枯れのバンブー」です。長さ比較は今回持参したG管です。
インカ道の道端の斜面地にそれは転がっていました。

立ち枯れ材といっても、良くしまった良材で、ケーナチョ(LOWC管)はおろか、ママケーナ(LOWG管)は作れそうな節間を持っていました。

よっぽど日本に持ち帰ろうかと思いましたが、ユネスコの世界遺産(動植物と遺跡の複合遺産)登録地ですので涙を飲んで断念しました。

場所は「インティプンク」遺跡(太陽の門)のちょい先で、辺りにはボリビアで見つけたようなバンブーが群生していました。

旧アグアスカリエンテス村に下りてきて、ケーナ製作家にそのことを話したら、あそこは有名なところなんだよ、持ってこなくて大正解だよ、つかまって日本に帰れなくなっちゃうところだったよ、と言われました。
(この稿2007年12月 2日 記す)

3、クスコのペーニャ


  昨日は夜の9時に眠くなり、そのまま寝てしまい、今朝は午前6時に起きました。
大分時差ボケも取れてきました。

 大部留守にしていたので、居候のネコがどこに行っていたの?といった感じで入力中の膝の上に載ってきて、おかげでネコ布団でとってもあったかです。

 オリャンタイタンボ(スペイン軍からクスコを守る砦)で買った、それはそれは色使いがいいポンチョ。アルパカ製ということで、未脱脂の獣匂、つまりうちのネコそっくりの匂いがします。

 午前中、お世話になったクスコの旅行社のBBSへお礼の書き込みをしたり、知人や仲間内にメールを入れたり、来るケーナ学会でのレポート(3Bの件)を書いたりしています。

 午後から久しぶりにケーナを作ろうかなと思っています。

 写真はクスコのペーニャ「エル トウルコ」での写真です。
夜8時から始まった演奏と踊りは終わりを知らず、さすがに私達は10時には引き上げました。ホテルはそこから歩いてすぐなところなのでらくちんでした。


 リマで泊まったペンションの日系1世のHさんに伺うと、今でもリマに「チチカカ湖の霧」という名前のペーニャがあるそうです。ウニャ・ラモスがリマでコンサートをやる時には、必ずこのペンションを訪れたそうです。それはそれは物静かな方だったそうです。

(この稿2007年12月 3日 記す)


4、キヌアスープ


訪れたケーナ製作家、チャランゴ製作家の工房、お住まいはとても質素でつましやかだった。特に、工房は「日干しれんが」を積み重ね、床は土間だった。
ただ、工具は上等なものを大切に手入れしながら使っておられた。ケーナ製作家のドリルの切っ先とか、チャランゴ製作家の内部のアールを削りだす工具とか。

今日のお昼は、僕も質素に、昨晩の味噌仕立てカキ鍋の残り汁にうどんを入れて済ませた。

このうどんを食べていると、カルロス一家(クスコから車で40分ぐらいのところにあるピサック村の農業兼音楽・舞踏一家)を訪れた際振舞われた、お昼のキヌアスープを思い出す。このスープは、日本で言うところの雑穀雑炊で、穀物・キヌアは粟をもっと繊細にした感じ。

今食べているうどんのように、にんじんと青菜が入っていて、とても穏やかでお腹にやさしいスープだった。
それを私は「お袋の味」ですね、と申し上げたら、通訳のジミー氏はどう訳せばいいのかちょっと困っていた。

画像は一家の踊りと演奏。
屋外でやっていただけるはずが、突然の雨で家の中での踊りとなった。

余談ながら、そのお住まいには「神棚」みたいなところがあり、ご先祖のご遺体が服を着て座った状態でまつられていた。その様子は過日放映されたNHKのインカ特集番組と全く同じだった。


(この稿2007年12月4日 記す)


5、移動手段



まだ本調子でないというか、夜9時になるとたまらなく眠くなり、そのまま寝てしまう。朝はとても早く、日の出前に目が覚める。
このまま、晴耕雨読型、朝型人間になってしまうか。

今日のお話は現地での、「足」、移動手段のこと。

専属の運転手さんに来てもらった。
車は日本のT社製のワンボックス。

因みに街中で見かける車のほとんどが日本製(の中古車)
車庫証明のステーッカーの群馬県公安委員会?なんてそのまま張ってある。
タクシーはT社のカロ○ラのライトバン、D社の軽ミ○がほとんどで、後者はちょっときつそう。

もう一つはタクシー。
こちらは「カミカゼタクシー」というか「クモスケタクシー」というか、すさまじい運転で(ペルーではタクシーがということでなく、一般のドライバーは我さきの運転をするようだが)、肝が縮むし、メーター料金制でなく、行き先を告げ、値段交渉をする。

タクシーのほうは、また別の日にお話しするとして、ずっとついてもらった運転手氏のお話。

ホルヘ氏といって、映画俳優のようなイケメンの胸板厚い若い人。
自分専用の音楽テープをすぐ流し始めて、それがなんとフォルクローレだった。
聞いてみると、ケーナ、チャランゴ、サンポーニャを始めて5年目だという。
サビア アンディーナのフアンだとかで、そのテープの流してくれる。
このボーカルいいよねという(といっているらしい)。

お陰で、すぐに打ち解ける。
日本で、コンフント組んでいるみたいだけど、歌は日本語でやるの?スペイン語?と聞いてきて、当然スペイン語ですよ、とサリーリィを歌ってみせる。
「ヘーイ、アミーゴ!!」ということとなる。

このアミーゴ(友達)というのは決まり文句で、買い物をしていて、値下げ交渉が成立すると「アミーゴ」といって、肩をたたき、握手する。

クスコから宿泊先のオリャンタイタンボ村までの道中、彼は、途中途中頻繁に車を止め、ガイドをしてくれた。

写真は、途中通過した名も知らぬ村の子供達。
「鼻をたらす」子供は日本ではとんと見かけなくなった。


(この稿2007年12月5日 記す)


6、ケーナ工房訪問


今日のお話は、クスコのケーナ演奏家、製作家の工房を訪れた時のお話。

一本のバンブーから、ケーナを完成させるまでの一部始終(3時間弱)を見させていただいた。
調音、ピッチ調整に備えるまでの「下穴開け」のほぼ完成までに半日かかると見立てた。
その後、完成までに、調音、ピッチ調整に4日はかかると彼は言った。
いいと思って「完成」させたかに思っても、翌日吹くと「低い」からと彼は説明する。
この理由と、あらあらの製管までに半日、その後完成までに4日というのは、僭越ながら、私の作るタイムテーブルとほぼ同じ。

これまた僭越な物言いだが、数をこなす、大量生産的に作るというのは「ケーナ」は向かないのではないか。

10時チョット前に工房に入り、出てきたときには12時半過ぎ。
彼の自宅の居間に今度は案内され、そこでは彼の子供達のコンフントの練習が真っ盛りだった。
お茶とクラッカーを振舞われた。
このペルーの大振りのクラッカーが、すいたお腹に大層おいしかった。

お茶はホテルでもそうだったが、紅茶、コカ茶、アニス茶、マンザニア茶の4種類のティーバッグが用意されていた。
ここでも、西欧と南米ネイティブの混在、融合が見られとは、少々大げさか。

(この稿2007年12月6日 記す)

7、オリャンタイタンボ


ケーナ合宿に千葉へ泊りがけで行ってきた。第1日目は竹取実習。竹山入山もようやく、7、8回目にして、殺生気味にやたら切り出すということはなくなってきた。
そんなには持って帰れないから、いいものを少しだけ、「竹と対話しながら」いただいてくるという境地。

そんな風に山から下りてくると、なんと、この山のすぐそばは前方後円墳の遺跡だった。
というより、古墳は自然の地山、山容をそのままいかして築造されているようで、たった今しがたまで竹を切り出していた山は遺跡そのものではないにしろ、景観的には一体をなすもののように思われた。

墳丘部には神社が祭られており、地元の方が大切に守ってきたことが窺われる。

私の地元八王子にも北○○古墳があり、石室は風雨にさらされ、今は茫々たる荒地になってしまっている。

写真はオリャンタイタンボ遺跡。
クスコをスペイン軍から守るためのインカ時代の砦。

地元の方はこの遺跡を多分誇りに思い、頭上にいただきながら、つましやかに暮らしている。

その、炊飯の「けぶり」や食材を刻む音をききながら、一人静かにその路地裏を歩き回ったのだった。

その異郷の雰囲気や空気と一体になった自分がいる。


(この稿2007年12月10日 記す)



8、クスコの味噌汁



 千葉の味噌汁は海産県らしく、しっかりと「海のものの」出汁がきき、そして新鮮なワカメが入っていて大層おいしい。白味噌仕立てで、なぜか濃い目の味付けである。

そういう「典型的」な味噌汁がやはりケーナ学会の朝食にでてきて、2杯もお代わりしてしまった。

高山病であまり食欲もなく、クスコの料理は味も濃く「油」が鼻につき、贅沢にもパス気味。
さて今日の夕飯は何にしようかと、同行のT君の意向を聞く。
もったいないけど(せっかくクスコに来ているのに)、日本料理にしてみますかと、ホテルから歩いてすぐのところにある、アルマス広場に面したKというお店に行った。

私は「ご飯セット」(ご飯+味噌汁+お新香)に揚げだし豆腐とした。
この味噌汁がとてもおいしい。揚げだし豆腐も料亭の味といった上品な味。
不思議なもので、完食し終わったあとは、五体に生気がみなぎる気がした。
味噌汁パワー?

オーナーシエフは日本の方だそうで、濃い目の味噌汁の味付けは関東ご出身だろうか。
余談ながらもう1回このお店に行ったのだが、2回とも納豆は品切れだった。ただ、揚げだし豆腐のお豆腐はお豆腐そのもの。

因みにT君はというと、天ぷら。

彼は「米沢牛」の地元らしく、他のクスコ料理のお店では、果敢にも「アルパカの焼肉」とか何とかの心臓の串焼きなどを完食していた。


(この稿2007年12月11日 記す)

9、マチュピチュのお昼



先日のケーナ合宿、愛知の岡崎から参加された方がおられた。
車中で、「確か八丁味噌が有名でしたよね」と申し上げると、「そうなんですよ」とひとしきりその話で盛り上がった。

昨日、八丁味噌が届いていた。
その方が送ってくださった。

今晩は「大根ステーキ」を作って、名物のこの味噌をのせ、ACミラン戦を観戦しよう。

マチュピチュの一日目は、霧、雨模様だった。
霧に包まれるマチュピチュもまたいい。
本降りとなってきたので、お昼過ぎに降りてきて、お昼とした。

お昼は簡易天幕の下で営業する、軽食屋さん。
といっても、マチュピチュ直下での唯一のホテルで有名な「サンクチュアリーロッジ」直営のお店。

てっきり大きなハンバーガーかと思ったら、チーズ、パストラミ、レタスのサンドイッチだっだった。それにカフエオレがついて、日本円にして約600円。

パンや、はさむ具の素材そのものがおいしく、特に「ソース」はついていなくても大層おいしかった。一人前半(女性であれば2人前)のそれを、お腹がすいていたせいもあり、完食。

シーズンオフのマチュピチュはそんなに込んでいなかった。

欧米の方が一番多い。
その次にペルーの小中校生の遠足、修学旅行グループ。

マチュピチュへは麓からバスで25分ぐらい、急斜面を九十九折で上がっていく。
その山道(多分2時間弱)を黙々と歩く、ソリスタやカップルを稀に見かける。
そのほとんどは欧米の方。

2、3週間のバカンスがあり、多分マチュピチュへは3泊4日ぐらいの日程できているから、あえてバスに揺られショートカットする必要もないのだろう。

が、その「瞑想」するように歩く横顔を見ていると、マチュピチュへ行くこと自体が目的でなく、そこにいたる「過程」と「そこに自分をゆだねること」そして「その自分だけの時間を大切にすること」を静かに味わいたいのではないかと思う。

麓の旧アグアスカリエンテス村を我々はせわしげに散策をする。
その傍らのカフエの外に張り出した店先で、欧米の女性が何か書き物をしていた。
2時間後またそこを通りかると、その女性は同じように書き物をしていた。
詩でも書いているのか、自分だけの時間を大切にしている。
(この稿2007年12月13日 記す)

10、風土



昨日はある方のお宅をお邪魔して、著名なケニスタお二人の演奏を聴く機会に恵まれた。
同一の曲(ペルークスコ地方のワィノ)をペルーの方と日本の方が吹かれている。

どちらの方のほうがいいとか、そういうことを申し上げたいということではないことを強調しておきたい、そういうことが大前提。

前者は「明るい、くっきり、乾いた」感じ、後者は「しっとり、まろみ、モダンな」感じがした。

ペルーの方が、小さい頃から耳に慣れ親しんでいる音楽をそのまま表現されるのだから当然だろうが、「伝統的」な感じで、2週間前に耳にしたピサックのケニスタが吹いてくれたそのままの感じだった。

そういうケーナを聴いていると、アンデスのアルティプラーノ(高原)という風土が反映しているかのようだ。
日本の方は「梅雨があったりする四季折々の季節のうつろい」が反映しているといったら、少し言いすぎか。(画像はクスコからウルバンバへ向う途中の風景)


この稿2007年12月14日 記す)



11、ヘビィーな旅は二人で


ケーナ合宿も結構ヘビィーで、ようやく体調も戻ってきた。
今日は午後一杯ケーナ同好会、夜はフロンテラの忘年会と、ハード、タイト。

今回のペルー旅行は二人旅。
結果として、大正解だったと思う。

大げさだが「危機管理」「不測の事態」のとき、パニクることなく、冷静な目で対処をしてくれる人がいる心強さがある。

例えば、ケーナを行く先々で買ったものだから(都合18本)、真夜中のリマの空港で預け入れ荷物検査で、重量オーバー(23キロ以内)で、はねられてしまった。搭乗時間も迫っているなか、もう一つのバッケージを買って移し変えなければならない事態に陥った。

同行のT君が僕のに入れなよと、落ち着いていってくれ、事なきを得た。

アトランタの乗り継ぎのとき。
方向音痴の私はどこだろうどこだろう状態だが、彼は「何だ日本語の表示があるじゃん」といち早く、進むべき道をみつけてくれたとか。

一方、ヘビィーな旅だから、どちらかが寝込むこともある。(うまくしたもので、二人同時ということはなぜかない)

2800メートルのオリャンタイタンボ村では、彼が高山病で半日ばかり、寝込んでしまった。
僕は、一人旅となり、村の辻々をこころゆくまで、一人静かに散策した。
ホテルにかえって、ミニアンデネス(段々畑)の裏庭にある「東屋」に一人座り、心行くまでケーナを吹いた。
吹きつかれ、暫しまどろみ、覚醒すると、今時分はどこにいるのだろうと、一瞬わからなくなった。
そういう自分をアンデスの夕暮れが包み込むのだった。

画像はオリャンタイタンボ村の宿。
独立したコテージになっている。
再訪したい場所の一つである。




この稿2007年12月15日 記す)

12、マチュピチュに向ってケーナを吹く



マチュピチュからクスコへと向うインカ道の登りを歩くこと1時間半あまり、インティプンク(太陽の門)遺跡はある。
逆にクスコからの道中から見ると、一番最初にマチュピチュを望見することができるビューポイントであり、そこに何らかの儀礼の場と守衛の場を置いたことは想像にかたくない。

マチュピチュも一望でき、登りで汗をかきフウフウいってきた体に、ひんやりとした風は気持ちよい。
その風に誘われ、ケーナを吹いていたら、陽気なペルーの若者がやってきた。
ケーナを貸してくれという。


そのお礼に彼はチュリ(耳あて帽)を貸してくれた。

私の顔の左がワイナピチュ、そのまた左の白っぽい広がりが、マチュピチュ遺跡
その下の九十九折がマチュピチュへ登るバスの道

その次に登ってきたのが「日本人インカ道トレッキング隊」のご一行

このビューポイントをどこうとしたら、そのままそこにいてください、一緒に写真に入ってくださいという。下からケーナがよく聞えてきてどんな「迷」演奏家がいるのかしらと思って上がってきたのだとか。


この稿2007年12月17日 記す)


13、高山病


マチュピチュの麓で1泊し、午後3時半発のクスコ行き高山列車に乗る。
クスコまでは4時間弱。
クスコにつく頃は夜となり、クスコの夜景がみえてくる。

過去2回とも3400メートル(因みにマチュピチュは2600メートル)のクスコが近づくに連れて、高山病で頭がズキズキし気持ち悪くなり、夜景を楽しむどころではなくなっていた。

3度目の正直で、今回は快調で夜景を楽しむことが出来た。

多分、1泊目リマ海抜10メートル、2泊目オリャンタイタンボ2800メートル、3泊目マチュピチュ2600メートルと少しづつ高度馴化させたお陰だろうか。

ただ、私の体質としては3400メートルのクスコ辺りが「短期間」の高度順応の限界だったようだ。3400が薄氷を踏むようなギリギリの線。

クスコのメルカド(大衆市場)の買い物2時間ぐらいで、頭が痛くなり、ホテルへ引き上げ横になった。T君が入れてくれたコーヒーをいただき、屋台で買ったチョコレートを食べると、頭の痛みも薄らぎ、気持ち悪さも取れた。

2品のカフエインの覚醒作用と休養のせいだろう。

前2回は横になっても、ますます頭が痛くなるばかりで、頭痛薬をのんで無理やり抑えるという形だったが、今回は1回もそれを飲むことがなかった。

また、過去は同時に歯も痛くなってきたが、今回はそれもなく、ランニングによる基礎代謝のアップと一都市滞在型の余裕あるツアーによるところも大きいようだ。

先ほどの「薄氷を踏む」のお話の続き

クスコ近郊のピサックのメルカドを目指した時の話
途中3900メートルの峠を越えていく。
その峠が近づくにつれて、私はかって味わったことがないような、胸苦しさと動悸を感じ、頭のてっぺんからつま先の体の全表面が突っ張るような症状に陥り、身動きが出来なくなっていった。
全身から血の気がひくというか、立ちくらみの一番ひどい状態といった感じ。
多分急性酸素欠乏症だったのだろう。

通訳のジミー氏の「ピサックは2900メートルだから大丈夫、よくなりますよ」との言葉通り、ピサックにつくと嘘のように回復したのだった。

つまり、私の体は3400が限界で、それを超えるとダメだったというわけ。
不思議なことに帰りの峠はなんともなく、人間の体の頑丈さと精密機械ぶりにある種、感慨。
この稿2007年12月18日 記す)


14、リコンファーム


昨晩は愛知の岡崎の方から送っていただいた、八丁味噌(赤味噌系)を使い、牡蠣の土手鍋を作った。残り物の河豚も入れ、海鮮鍋となった。
味噌が生臭さを消し、とてもダシが濃厚なおいしい鍋となった。
仕上げはラーメンを入れ、海鮮ミソラーメン。
「行列が出来るラーメン屋さん」ができるような味。

今日はリコンファームのお話。

往復航空券でもって、帰りの便を押さえている場合、フライト72時間以内に「予約履行再確認」(確かに予約どおりその便に乗りますよという意志表示)の手続きをすることをリコンファームというらしい。

事前に航空券の手配をお願いした旅行社に聞くと、リマのD航空の支店(因みに「ペルーへ行こう」ではC航空となっているが乗り継ぎがタイトなためD航空に変更済み)に電話でそれをするように、多分英語が通じるでしょうとのことだった。

米国乗り継ぎ、そしてこのリコンファームが2大関門であることは、出発前から充分認識していた。

とうとうリコンファームをしなければならない日がやってきた。
今後の独力海外旅行のシュミレーション、事前リサーチが今回の旅行の目的の一つでもあるし、「えい、ままよ」と電話した。

指定された番号へ電話すると、何かスペイン語で言っているらしい。
「リコンファーム プリーズ」と言うと、暫くしたのち英語のスタッフが出てきた。
続いて「便名とフライトの日付と時刻」を棒読みの英語で言う。
スタッフの女性は端末を立ち上げているらしい。
彼女は「フアッチューユアネイム」と尋ねてきた。
ここから自分の名前とT君の名前を言うのだが、ジョンだとかありふれた名前でなく聞いたことがないような日本の名前だし、日本語なまりのアルファベットだから、なかなか通じないし、端末の名前と合致しないようで、何度も言い直した。

結局何とか通じて、彼女は何度も「コンプリート!!」と繰り返した。
雰囲気で「完璧よ、よくやったわね」と言っているらしいことは伝わってきた。

これで大きな山は越えたわけである。

画像はクスコ空港
この稿2007年12月19日 記す)

15、セビィーチエとクリスタル



ここ3、4日ほど風邪で寝込んでいて、今も最悪。
多分ペルー旅行以来毎週のイベントで、体が疲労していたせいだと思う。
昨日はケーナ同好会の例会と忘年会があり、無理して出かけた。

忘年会の会場はいつもどおり、ペルー料理屋さんのMさん(JR八王子駅北口徒歩7分)

まず、乾杯の一杯ということになると(ビールのお話)クスケーニャ派とクリスタル派に別れるようだ。

ペルービールは他にもあるに違いないが、クスコでビールを頼むとクスケーニャが、リマで頼むとクリスタルが出てくるようだ。
気候風土の違いが好まれるビールに反映されるのか。
乾いたハードな前者は、甘くまろやかなクスケーニャが、暑いムットする後者はすっきり、クッキリしたクリスタル。

画像はリマでご厄介になった、ペンションのH婦人(日系1世)に連れて行ってもらったレストランのペルー漁師風海鮮5種盛り大皿とクリスタル。

観光客が行かないような、リマの地元の人が行くレストランがおいしいのよ、そこへ連れて行ってあげると、案内され、歯切れのいいスペイン語で注文してくれたのがこれである。
(因みにお連れ合いのH氏からは地元の人しか行かないような楽器店街を紹介されカミカゼタクシーに乗って行ったのだが、その話はまた別の日に)

リマは砂漠、海岸気候で、海産物が大層おいしい。
本場、セビーチエ(激辛ペルー風海鮮マリネ)がとてもおいしかった。
H婦人にその旨を話すと、「そうでしょうとも、ライムが違うのよ」と仰った。

一方昨晩のお話。
やっぱりセビーチエがとてもおしいしい。
マスター(リマご出身の日系3世)に「リマのセビーチエもおいしかったけど、ここのも負けず劣らずおいしいですね」と申し上げた。
マスターは「ウーン、リマのほうはライムがちがっていてね、、、、」と同じようにライムのことを話題にされた。

隠し味のライムが大事なようだ。


この稿2007年12月23日記す)

16、少年老いやすく学なり難し


引き続き絶不調。
年内竹取り・仕込みはおろか、年内ケーナご紹介、アンデスグッズご紹介、旅行記「検証編」のアップもおぼつかない状況になってきた。
昨晩はここ3、4日かってないほどの、悪寒と体の煮えたぎり感、頭が半鐘をうちならされるような感じで、熱を測ってみたら38度5分もあった。

一睡も出来ないというか、夢うつつで朝を迎えた。
夢うつつは今習いかけのメロディーラインが繰り返し現れては消え、ケーナ同好会の方向性・運営をめぐっての自問自答が延々と続き、しきりに、若い頃出会った人たちが現れては消える。

お昼間ぼんやりしていると、電話が鳴った。
以前勤めていた職場の先輩だった。
「ひさしぶりにかっての職場に行ったんだけど、○○さん(私のこと)がいないんでびっくりしてさ、ところで、今なにやっているの?」
当時、電話をくれたこの先輩ともう一人の先輩と私の3人で、色々やっていた。
当時私は血気盛んな30代で、両先輩とも40代だった。
この先輩は今は「宗教家」として活躍されておられ、もう一人の先輩は「議員」として活躍されておられる。

一方、私は何をしているのだろうか。
いったい、私は何をしたいのか。


電話をかけてきた先輩にお年を尋ねると67だという。


少年老いやすく学なり難し


画像はクスコの街角の手織りアワヨのマフラー織りの女性。
その織物は見るからにしっかりしていて、手織り感・土の香りがする。
えもいわれぬ、そのアンデス風の色模様に強く引かれた。
一見同じように見えるのだが、彼女は自分の作品に3段階の値段をつけていた。
ペルーとの物価を勘案して、値段をあえてふると「三千、四千、五千円」となる。
「値段交渉をしなさい」というセオリーで儀礼的に少しやってみたが、彼女は自分の作品に誇りを持ち、リンとして、最初の値段を変えなかった。

早く元気になり、このマフラーを巻いて外を歩いてみたい。
この稿2007年12月24日記す)

17、礼状


1ヶ月近くもたって、やっとペルーでお世話になったお二人の方へ、お礼状も兼ねて、お約束していたデジカメ写真をお送りすることが出来た。

肩の荷がおりたというか、これで「ペルー旅行」も終わったという気がする。

なぜこんなにも遅くなったかというと、旅行以来毎週イベント続きの上、ここ10日ほど体調を崩していたせいもあるが、礼状のスペイン語訳(それと、文字化けしてもいいようにと英語にも訳したという2重の訳しもあり)に時間がかかったせいでもある。

画像は礼状をお送りしたお一人の方
(もうおひと方は20ぐらい前の投稿でご紹介したケーナ工房の方)

クスコ近郊のピサックにお店を構えておられる方。
お店には常時弾きのアルパがデンとおかれ、その方が作られたケーナのほか、サンポーニャ、チャランゴなどが綺麗に並べられていた。
2曲ほどご一緒にケーナを吹かせていただいたのだが、「どうしてこんなに気持ちよく響くのだろう?」と思うほど良く鳴った。標高(2900)のせいか、乾いた空気のせいか。

この方のお兄さんは日本にも来日したことがあるそうで、当時の相方の方は私も知っている方で、現在も日本で活躍中の方である。(一度そのグループ・「ロス アウキス」のコンサートに行ったことがある)

その旨をお話したら大層ビックリされ、そして喜んでおられた。
この稿2007年12月29日記す)


18、工房


昨日の夕飯も、そのまた前の夕飯も、あまりにおいしいものだから、「味噌カツ丼」を食べた。
レシピ
熱々のご飯を丼によそる。
その上に、厚さ1センチくらいにキャベツの千切り(ちょこっとニンジンの千切りを加えると彩りよくなおよい)を載せる。
その上に揚げたてのとんかつを幅2センチくらいに切ったものをのせる。
その上から「八丁味噌(田楽用)」をたっぷりかける。
食べ方は、ご飯とキャベツとカツを味噌をからめて、いっぺんに食べるのがいい。

因みに八丁味噌は愛知・岡崎の方から送っていただいたものを大事に使っている。

こってり、甘辛口で、つくづく私は東日本だなと思う。

昨年の今頃、やはりクスコにいた。
クスコから国際電話をかけ、息子に「町会火の用心の夜回りの段取り」の確認をしていたことを思い出す。

工房にはもう1箇所行った。
正確に言うと、高山病でダウンしていたとき、同行のK君が有名な「12画の石」(インカ時代の石組みの一つで、カドっこが12画となり、隙間なくはめこまれている石)辺りを探索し、探し出してきたところで、翌日彼につれられて行ってきた。

そこはチャランゴ、マンドリーナ、ギターラ等の弦楽器工房だった。

日干し煉瓦を積み重ねた、土間の工房へ案内されると、そこでは息子さんが一心にチャランゴを彫っていた。

T君によれば昨日も彼はそうしていたというから、その次も、そのまた次の日も、要するにそうすることが彼の毎日の仕事なのだろう。
(工房主のお父さんのことはまた別の日に)
この稿2007年12月30日記す)
※以下連載続く

19、プエルタ デル ソル(太陽の門)


今年のお正月は、結婚していらい初めて、カミサンの田舎に行かないで、家で過ごすお正月だ。
大学受験の娘のためそうなった。

来年はなるべく多くケーナをご紹介しようと思っている。(少なくともなるべく在庫ゼロという日を少なくしようと思う。)
ということで、年末は一生懸命ケーナを作っている。

写真は、マチュピチュ遺跡(建物群があるところ)に入る時に最初にくぐる門(私は勝手に「プエルタ デル ソル(太陽の門)」と名づけたのであるが)の門扉(多分当時は木製であったろう)の開閉に伴う石の装置の穴である。


午前中の早い時間、すいている時間だから出来たことで、お昼近くになって込んできて、例えば込んだ山手線状態では、あなた何をやっているんですかと言われてしまうだろう。

「プエルタ デル ソル(太陽の門)」という曲がある。

寂寥たる石の遺跡に吹き渡る風をイメージしたような曲だ。
何か込められた思いというか、力強さも感じる。

2日目、マチュピチュから降りてきて、麓の街(旧アグアスカリエンテス村)のレストランに入った。

アグアスカリエンテス駅の線路のホームにあるレストランで、誠に旅情あふれる。
クスケーニャ(ビール)を飲みながらピザを食べていると、いかにもという感じのフォルクレリスタが三々五々集まってきた。

目ざとくザックから突き出たアグワヨのケーナ袋を見て、「やるのかい」と言って、吹いてくれたのが 「プエルタ デル ソル」だった。
「あなたが作ったのかい」と問いかけ、そうだと答えると「ビエン」(いいんじゃないの)と一言だけ言った。

じき演奏が始まった。

オープニングは僕達を意識してか(というのも同行のT君が「この曲私好きなんですよ」と言ったからだと思う)プエルタ デル ソルだった。



この稿2007年12月31日記す)


20、一人静かに行く


丁度1年前、去年の大晦日から元旦に切り替わる頃(2006.12.31→2007.1.1)は一人静かにインカ道を歩いていた。現地は14時間前だから12月31日午前10時となる。

こういうことを始めてから、一人でいることが多くなり、群れないで、私は一人で行きます、そういうほうが好きですという感じになってきた。

写真はこの間のインカ道で、右手はいつぞやお話したケーナに最適なバンブーの群落があった。

初めて我が家で過ごすお正月に、義理の姉が京都大原の「おせち重+年越しそばセット」を送ってくれた。

娘が「新撰組」(3年前の大河ドラマ)のDVDを借りてきて、第1話からずっとみている。
その中で、石黒賢扮する桂小五郎が「関東の蕎は、、、」という台詞のシーンがあり、山本耕史扮する土方歳三が立腹する。

関西の蕎麦はどんなんだろうかと思って食べた。
お蕎麦自体もおいしいし、おつゆも確かに関東風と違って初めての味だが、結構いける。
関東のはまず、おしょうゆの濃厚な味が先に来るのだが、関西のは先に「だし」の味が来る感じ。

お正月らしく居候のネコには「白身魚のテリーヌふう」というキャットフードをあげた。
大喜びで食べた。

ネコは寒がりで、よく家の中に入ってくる。

先日、コタツの中で寝転んで司馬遼太郎を読んでいたら、反対側からグイグイ押された。
娘かと思ったらネコで、必死に中に押し入ろうとしていた。

「だめだよ、布団をまくらなきゃ入れないよ」と、袂のコタツ布団をまくったら、さっと入ってきた。

ただ、夜(多分氷点下になっているはず)は「探索の仕事」があるのか、家の中にはいないのが不思議といえば不思議なことである。

彼女も「一人静かに行く」のが好きなのだろう。


この稿2008年1月1日記す)



21、ジエネレーション


今日はお雑煮の話。

我が家にお雑煮の確立した形と味というのはない。
カミサンが今年は作ってみるというので、私のお袋(相模の農家の娘の味)のそれを口で説明した。

「鰹節のしょうゆ味に大根、里芋、小松菜にお餅」というきわめてシンプルなお雑煮である。
大分似たものが出来てきて、大層おいしく頂いた。
多分これが我が家のお雑煮になるかもしれない。

間接的に、お袋の世代(ジエネレーション)から私の世代に引き継がれたということか。

「Fromジエネレーション Toジエネレーション」とは通訳のジミー氏がケーナ工房を訪れた際訳した名訳である。

3時間弱のケーナ作り見学を終え、工房主の家に案内され、暫し懇談した。

彼は「伝統音楽(いわゆる我々が言うところのフォルクローレ)は行政の保護・育成がなく、Fromジエネレーション Toジエネレーションで、我々が伝えていくに任かされているのみで、若い人はあまり関心を示さない」と大いに嘆いた。

そうですね、日本の伝統的文化もそういう状況に置かれていましてねと、同行のプロフエッサーT君は落ち着いた感じで、相槌をうっていた。

じゃあ一つやりますかと、子供達の伴奏の下、彼は「太陽の乙女達」をフィーチャーし始めた。
彼の家ではしっかり、「Fromジエネレーション Toジエネレーション」がなされていた。

この稿2008年1月2日記す)


22、初夢


私の初夢

農家の離れの納屋をお借りする。
畑がついていれば尚いい。
そこに私は自転車で「出勤」する。

そこには「ボール盤」がでんと置かれていて、壁にはパット手に出来るように工具がかけれている。

夜なべの仕事の後は、寝袋にくるまって泊まってしまうこともできる。
1960年代から全ての「中南米音楽誌」が置いてあったり、アナログのフォルクローレレコードも自由に聴けるようになっている。

たまに、そこでケーナ作りワークショップが行われたり、フォルクローレの練習も出来る。
キャンプ的に合宿もできる。

そんな夢

写真はクスコのケーナ工房の様子

手前の幅広セロハンテープは竹材を切る時のササクレ防止のため巻く。
その左上は仕上げに塗るベビーオイル

画像には映ってないが、「炭が入った七輪」があった。
その使用目的はうまく通訳が出来なかった。
焼き模様つけ?と管の「焼き絞め?」に使うのか。


この稿2008年1月4日記す)


23、メルカド


お正月にいなかに帰省した義理の姉が、福島の正月料理を持って来てくれた。

話は脱線するが、姉の連れ合いは、紅白歌合戦に出場するさる有名女性歌手のステージのデスプレイ(の製作)を担当している。今年もその歌手の裏でその機器の操作をし、それが終わってから帰省したそうである。
当然一家を挙げてそのシーンを見守ったのである。もっとも、義理の兄は裏で操作しているわけだからテレビに出ることはなく、白組司会者の「なんか裏でオジサン3人が操作していますねえ」と「紹介」されたのみであった。

その福島の正月料理に「イカニンジン」というのがある。
細く切ったニンジンとスルメにコンブをまぜ、独特の調味汁に漬け込んだ、一種の保存食であるらしい。緑黄色野菜にたんぱく質、そしてコンブのミネラルと、栄養学的にも理にかなっている。どうやら、寒い地方、福島でも会津?の方の郷土料理であるらしい。

相模の出の私には、全く思いもよらない料理である。



画像はクスコ市街のはずれにあるメルカド(大衆市場)の建物。

そこからは一種「摩訶不思議」な匂いが漂ってくるし、他に外国人観光客が入っていく、入っている様子も見えないし、そこに立ち入ることは相当の決心がいった。

中に入っていくと、想像通り喧騒というか、一大展示場的な相当年季がはいった大きな建物の中は「アメ横」状態だった。

「一膳飯屋」があったり、見たこともない食材が並べられていたり、中には生きたカエルがたらいの中で泳いだ状態で売られていた。
どこかのウエブサイトで、「カエルジュース」というのが紹介(精がつくらしい)されていたが、それ用か。

中で、なぜかロンロコ(チャランゴの大きいの)を弾きながら歌う青年がいた。
しばらく話したり、ビートルズナンバーを歌ってくれたりしたあと、「じゃあ、さよなら」というと、彼はこれを買わないかと言ってきた。
失礼だが大分使い込んで痛みが激しいので、同行のT君は丁重にお断りしていた。
この稿2008年1月6日記す)


24、滞在期間


ペルー入国の際は、入国申請書に名前や職業、滞在先、入国目的などを事前に書いておいて、入国審査官の審査を受ける。(離陸後暫くすると、それが配られ、暗い機中で四苦八苦しながら書いておく、英語で)

今回はリマ到着が1時間半ぐらい遅れ、着いたのは真夜中の1時半であった。そのせいで(眠い)もなかろうが、入国審査官の方は「アンデスのいいおっちゃん」という感じで、「ハーイご苦労さん」という風に特に「口頭試問」もなく、すぐに入国を認めてくれた。

前述の入国申請書の半券に彼は勢いよくポーンとハンコウを押してくれた。よく見ると、手書きで90と書いてあり、つまり、これで3ヶ月間のペルー滞在(観光ということで)がペルー政府から認められたわけである。

ピラピラのこの半券はパスポートと同じくらい大切で、「大事にね」と表敬訪問したクスコの旅行社の社長さんは、パスポートにホッチキスでしっかり留めてくれた。

昨年の年末、ペルーへ行ってきた旨をペルー出身のフォルクロレリスタRさんに報告した。
どれくらい行ってきたのと問われ、その期間を申し上げたら、信じられない、最低でも1ヶ月行ってなきゃと言われた。

仰るとおりで、3ヶ月の許可が出ているわけだから長期滞在しない手はないだろう。

ということで、気をつけてみていると、例えばクスコの日本料理レストランの掲示板(ネットでなく本物の)を見ていると、「1ヶ月 100ドル トイレ、シャワー台所共用」(多分簡易アパート?)」なんていう「物件案内」が目に付く。

前述の社長さんも、いくらでも長期滞在用(安い)のは紹介できるわ、何だったたら我が家なんていうのもあるわよと、仰っていた。

もう少し若ければ、3ヶ月間現地ケーナ工房居候、走り使い・たまに作り方も教えてねというのもやってみたいところだ。

ま、次回はもう少し長くいたい。

画像はクスコ空港のウエルカム演奏のコンフント
3回連続で同じ方々。(年を違えて行っても、毎回同じ)
多分相当のコネクションがある方々なのだろう。
この稿2008年1月8日記す)


25、イチュ


先日の新聞に、電気ストーブにあたる、南方系外国産のサルのことが載っていた。
動物園のオリの中が寒くて、暖をとるためということだが、大層珍しいことらしい。尻尾が焦げそうなくらい近づくのだという。

九州かどちらかの野生のニホンザルのことが対比され、焚き火にあたるのだから、電気ストーブはどうだろうと、実験したのだそうだ。警戒して一切近づかなかったそうだ。

うちの居候のネコ
灯油ストーブの前が大好きで、いつもあたっている。
前述の電気ストーブにあたるサルと同じように、尻尾が焦げそうなほど近づく。

その上で焼き鳥をした。
パチパチはぜる音が怖くて、外へ逃げ去った。
ネコは音が苦手だ。

ケーナを目一杯吹く傍らで、大の字になってグウグウ寝ている。
これは慣れだろう。

膝に抱っこしながらサンポーニャを吹くと、不思議そうな顔をして振り返る。

ネコの散歩→「サンポ ニャー」だから大丈夫!?

画像はオリャンタイタンボ村(クスコとマチュピチュの中間ぐらいに位置する)のイチュ(葦のような柔らかい竹)
屋根を葺くのに使うらしい。
マチュピチュの建物もこれで葺いていたという。
昔も今も同じ。


この稿2008年1月11日記す)


26、お刺身


今日は私の実家の新年会に出かけた。
お寿司が出た。
大層おいしかった。といっても「生もの」はちょっと苦手で、食べるのはイカ、アナゴ、ウニぐらいで、人の3分の1もあればいい。
今日は一人分をお袋と二人で分け合って食べた。

ペルー、リマは海産物が豊かなようだ。

ご厄介になったペンションでは夕飯に山盛りのお刺身が出た。
ウニにイカ刺し、これは好物なだけに、その新鮮さとおいしさ、ネタのよさはそれなりに分かるつもり。両方とも飛び切りおいしかった。
特にウニはお皿一杯、刺身状態で食べるのは初めての経験。
とろけるようにおいしい。

ご主人(日系1世)が海苔一帖(一枚そのまま)持ってきてくれ、これで「ウニの軍艦巻き」にしちゃって食べてくださいと仰った。
熱々のご飯にウニ、海苔、お醤油、いうことなし。

特に夕飯にということで奮発したわけでもないのに、この量はというと、、、?
ペルーではあまりウニは食べないということなのだろうか。

偶然隣り合わせた方は、日本の方で「遠洋漁業の船員さん」らしかった。
魚介資源をここまで採りに来られているようだった。

鍋焼きうどんが出たり、ご飯に味噌汁、漬物と、お給仕のペルーの女性がかたことの日本語でそれを運んでくるのだが、とても不思議な感じがした。

リマでは「カミカゼタクシー」に乗って「天野博物館」(画像・プレインカの遺物を展示する私立博物館・実業家の天野氏が設立)へ行った。

「ピースボート」のご見学一行に混ざり、学芸員さんの説明を聞きながら、見て回る。
ピースボートらしいつっこんだ質問がなされたりした。

逆に学芸員さんからの質問。

楽団の演奏を表した土偶を指差しながら、「現代のフォルクローレ・ストリートミュージシャンが有していて、この楽団が持つていない楽器はなんでしょう?」と質問された。
同行のプロフエッサーT君は「ギター」と即答した。
そうですね、弦楽器なんですね、弦楽器はスペイン侵略以降なんです、と説明された。

確かにその土偶の楽士はケーナ、サンポーニャ、ボンボしか持っていなかった。
この稿2008年1月13日記す)

27、インカコーラ


昨日は久しぶりに「フロンテラ」の練習。
ついにさるレストランでの演奏が決まった。
2月下旬のそれに向けて、2ステージあるので、一体我々は何曲できるか、いくつレパートリーがあるかを確認するため、片っ端からやってみた。
結局、危なっかしい(一番危なっかしいのは僕であるが)のも含め、昨日の時点で13、4曲といったところで、何とかなるのではないかということになった。

ただそれへ向けての猛練習が必要となるわけで、その練習、ケーナ同好会、尺八ワークショップ全5日とで、2月一杯までの土日は全てそれらで埋まってしまった。(正確に言うと1日だけあいているが多分竹取りに行くことになるだろう)

全く予定が入らないというのも困ったことだが、まだ冬が始まったばかりだというのに、春まで全ての(土日祝祭日の)スケジュールが埋まってしまったというのもどうしたものか。

ここのところ娘が、深夜、コーラ、サイダーを飲みたいとよく言う。

よしとばかり、昨年の「インカ マヤ アステカ展」で買っておいた、虎の子の「インカコーラ」を出してきて、みんなで飲んだ。
子供達は初めて飲んだみたいで、それなりに感激していた。

因みにコーラとあるが、KコーラやPコーラのように茶褐色でなく、「黄金色」でサイダー味をもっと甘くしたような(昭和30年代の駄菓子やさんで飲んだような!?)味である。

更に、因みにペルー国内線旅客機やペルー鉄道(マチュピチュへの高山鉄道)の機内ドリンクサービスの筆頭にインカコーラがある。

画像はマチュピチュへの遠足へ向う小学生。
彼女達は皆一様に大きなインカコーラのペットボトルを大事そうにかかえ、ちょっとづつおいしそうに飲んでいた。
ペルーでは絶大な人気があるのだろう。

この稿2008年1月15日記す)


28、フラウタと尺八とケーナ



当地、八王子は初雪
例年より少し早い。

都心へでかけ、フルート演奏家の方とお会いし、ペルーで買ってきたフラウタ(現地では「ピーノ」と呼んでいた)をお届けした。

お渡しがのびのびとなっていて、これでお約束が果たせ、無事お届けできほっとした。

フルート演奏家の方にお渡しするのでと申し上げたら、作者は「そうですかそうですか、では、まだ見ぬ演奏家のために」と仰ってサインをしてくださった。(画像ご参照)

フルートの方は、お正月の鎌倉のさる古刹で行われた演奏の写真を見せてくれた。
尺八とフルートのコラボレーションだった。
紋付、袴姿の尺八はそれはそれとして、和服姿のフルートも結構似合う。

尺八の方はいたくケーナに関心を示されたそうで、フルートの方にお渡ししてあるケーナを初めてにもかかわらず、いとも容易く軽々と吹かれたそうである。

フルートの方に言わせれば「フルートは一人あっちのはるか遠くで、尺八とケーナはこっちで一緒でとても似ている」と評された。

今度の日曜から毎週全5日、尺八ワークショップに参加する。
果たしてものになるか。


この稿2008年1月17日記す)


29、氷点下6度


ケーナのピッチ設定に温度計は必須で(だと思っているので)部屋には2つの温度計がある。うち一つは外気温と内気温が同時に表示される。

朝起きると外気温を見るのが常で、ここのところ氷点下6度や5度を指し示している。

そういう厳寒の中、居候のネコは外で夜を過ごしている。

夜行性のゆえ、付近を散策、偵察しているのか、縁側の下に作ってあげた「ネコ小屋」で就寝しているのか、5年付き合っているが、その詳細は不明である。

はっきりしていることは、ネコは「群れること」が嫌いらしい。

日中、「暖をとりに」よく家の中に入ってきて、ストーブの前で昼寝をする。
私一人でいるときにはサット入ってくるが、家族がいると、まず入ってこない。
ザワザワした喧騒がいやなようだ。

そういう時は寒風を我慢しても外で昼寝をしている。
とにかく、一人でいることが好きなのだ。

画像はペルーのさる村の路地裏。
私は一人散策した。
その雰囲気に浸り、一人いることがとても貴重に思えた。

ポンチョを着たお年寄りとすれ違った。
彼は異国人である私に何の注意も払わず、スーっと去っていった。
それはそれで私にはとてもありがたいことだった。

因みに「ポンチョ」とは、かの地のネイティブランゲージ・ケチュア語(アイマラ語だったかもしれない)が一般に使われている数少ない言葉の一つだそうである。
この稿2008年1月29日記す)

30、マチュピチュにて


大体、ケーナをアップしてその日のうちに(早い時にはすぐに)ご注文を頂く。
全くありがたいことである。
バチがあたるが、1週間せめて、2、3日「在庫」として残っていてくれたら、落ち着いて次を作れるのになあと思うこともある。

私の作り方では、1週間に1本作るのがやっとである。

オクターブ間のズレは、音のヌケは、音の留まり具合は、響き具合は、3オクターブのシは、ピッチは、吹いていて疲れない?、自分の管として吹き続けたい?とやっていくと、次から次へとはなかなかいかない。

寒いから夕飯は湯豆腐が多い。
油抜きをやったストーブの上で、コトコト。
職(食)住近接。

先日、竹取りにご案内いただいたYさんお薦めの、地酒「J萬亀」の日本酒がよく合う。

マチュピチュは今回(2007年11月下旬)で3回目。

おおよその位置、配置関係は分かってきたが、個々の遺跡、遺構、住居址となると、新たな発見がある。
今回は水路遺構がいたく気になった。

チョロチョロと水が流れる水路遺構。
水をポンプアップするのでなく、山に降った雨水とその保機能により、自然勾配で水を導く。
多分当時と同じ。

座り込んでじっくり見やる。
お勝手の台所の水場のようでもあり、いや、ここにしかないから、宗教施設?
そう、飛鳥の酒船石のように、、、とか、暫し思いにふける。

と、同行のT君から、そろそろ行きません?と声をかけられ我に返る。
この稿2008年1月31日記す)

31、自然な響き


昨日は、フォルクローレ3レンチャンで、帰宅は深夜0時45分。
ケーナ教室→ケーナ同好会(ケーナサークル)→「フロンテラ」(バンド・コンフント)

今日はこれから尺八ワークショップ3回目
おりしも当地は大雪
交通機関がストップしなければ、そして体調がよければいかねばなるまい。
娘は5時起きして、大雪をかきわけ、入試に出かけた。

フロンテラの方は今月の演奏にむけ練習が本番モード

レストランのBGMだからというわけではないが、チャランゴとギターだけのデュエットがプログラムに入った。
二人ともソロで充分通用する実力者同士方だから、「君の影になりたい・アララコス」のメドレーは、伴奏とソロ部分が縦横無尽に入れ替わり、圧巻。
ギターのソフトな響きとチャランゴの繊細な響きがよくあう。
切々たる哀愁と、情熱的な強さ

僕の方はコンドルは飛んでいくのワイニヨの下のパートを練習していって、あわせてもらった。
手前味噌的だが、いい響き具合か。

その後ヤラビへ再度かえり、終わる。
その終わり方が、華々しくないよねと、Tさんが口笛で、「こんなのはどう?」と吹いてくれた。
それを書き留めた。
作曲家だ。

画像は、マチュピチュへ行くため乗り込んだ早朝の「オリャンタイタンボ」駅

ホテルから歩いて5分くらいなのに、運転手のファン・カルロス氏は、多分クスコを5時くらいにたって我々を迎えに来てくれた。
この駅に連れて行ってくれ、大きな旅行用のスーツケースをクスコのホテルへ届けてくれるという。高原列車にはスーツケースは持ち込めないからだ。
お陰で、我々はディパック一つの軽装で、勇躍1泊2日のマチュピチュトレッキングへと向った。


この稿2008年2月3日記す)

32、メリとカリ


結局、雪は降り続き、体調も回復しないなか、尺八ワークショップ(奏法講習会)に出かけた。
トレッキングシューズで足ごしらえをしたが、まるで雪山を歩くような積雪だった。
体調はというと、先日の竹取の冷えと温泉での湯冷めから、風邪を引き、喉が痛くて咳も出るという最悪の状態。

行けば行ったで、尺八独特の奏法、メリ(メル)とカリ(カル)を教えていただき、欠席すれば危うくそれを聞き逃すところだった。

私の現時点での理解(間違っているかもしれないが)
メリ(メル)→あごを引いて(歌口に口を近づけて)吹き音高を下げ加減で吹く
カリ(カル)→あごを出して(歌口から口を遠ざけて)吹き音高を上げ加減で吹く

その加減は半音近く変化させるようだ
例えば今日の実習曲、「春の小川」でファ→ミと行くところでファの指づかいのままメリ(メル)で吹いてミ(に近い)の音を出していた(ように思う)。
メリとカリのことはなんとなく知っていたが、半音近く変化させるとは驚きだった。

もっともファの指穴をかざして?(5分の4くらい塞いで)半音下げる手法もあるそうだ。(下げる幅がメリに比べ大きいそうで「大メリ」と仰っていたかな?)
つまり、メリとかざしの2つを使い分けるそうだ。
表側4孔(ケーナ6孔)の少ない指穴で音階を出す工夫なのだろうか。

それと、先生は「尺八はカリ気味でなくメリ気味で吹いてください」とも言われた。
僕はそれを「尺八は少しフラット気味、コモリ気味、艶っぽく、憂い気味に吹く」と解釈した。
ケーナは「フラット気味でなく、ヌケ気味に吹くのがよろしい」(と私は思っている)ということと正反対のようで興味深かい。

画像はマチュピチュ行きの高原列車にまさに乗り込もうとするところ。
「ペルーレイル」(ペルー国有鉄道?)と車体には書かれているが、最近「オリエント急行」に業務委託?されたようだ。
オリエント急行っぽいのは、前回の旅行記でも書いたのだが、帰りの車中でファッションショーが行われること。
車掌がモデルになる。
というより、美男美女だし、モデルとして雇われ、ついでに車掌もやってねという感じ?
この稿2008年2月3日記す)

33、マチュピチュでコンドルを吹く


茨城の方からお電話とお手紙を頂いた。

めでたくケーナのお仲間が出来たということで、よかった、よかった。
メンバー募集に「ポスターを張り、、」というご苦労もあったそうで、私も、やったやったと懐かしくなった。
私の場合は、銀行と楽器店の掲示板(ネットのBBSでなしに本当の店内にある掲示板)にメンバー募集のチラシをはらせてもらった。

今日は、前から気になっていた「コンドルは飛んでいく」のヤラビ部分の、サンポーニャパートの耳符(耳コピー)をした。

「シミレ♯ミファ♯ソファ♯ソラシー 」に続く、合いの手のようなサンポーニャの「タラタッタッター」の部分。
サンポーニャは音域が人間の声に近いせいか、比較的楽に採譜できた。

参考音源は「インカケーナス」
今は解散しているようだが、私の大好きなコンフント。ペルーのグループ?で、伝統的、濃厚なところがいい。今回のペルー旅行でも(H19.11)そのCDを売っていたので、即買い。

丁度、ケーナ同好会(ケーナサークル)でコンドルをやっていて、そのアンサンブルのための採譜。

チャランゴ、ボンボを(も)志す人がいて、ありがたい限りだが、続いてサンポーニャにもトライする方が現れたらという願い。

会の女性で「マチュピチュでコンドル吹く」のが目標、願いという方がおられる。
結構そういう方も多いかと思う。

以前チャランゴ合宿へと向う列車の中で、乗り合わせた方から伺ったお話。
マチュピチュでコンドル吹いていたら、作者ダニエル・アロミーアス・ロブレスのご親戚(お孫さん?)という方がたまたま来られていて、声をかけられたという、サプライズのお話。
この稿2008年2月8日記す)

34、マチュピチュに雑草がはえていない訳


昨日は当地は、大雪。
積雪10センチ。

夜、「フロンテラ」(バンド・コンフント)の練習に向う頃は、雪が降りしきっていた。
乗ったバスは前後輪ともにチエーンを巻いて、急坂をあえぎながら登っていく。
普通タイヤの乗用車は横向きとなり、坂の途中で止まっていた。
スワ、通行止めかと一瞬困ったが、バスはなんとかその横をすり抜けていった。

結局昨日の練習が終わったのは夜中12時。

今度の演奏は全11曲を2ステージに分けて行うこととなった。

僕の役割はというと、

1ケーナで主旋律を吹く曲
2セカンドケーナで下のパートを吹く曲
3サイドギターを弾く曲
4サイドギターを弾きながら歌を歌う曲

がある。

1が、曲の出だしなど、心臓が口から飛び出すんじゃないかと大層緊張する。
2、3と段々にプレッシャーが減っていき、4は結構楽しめたりする。

今日はこれから、尺八吹奏講習会(4回目)へ行き、その後、今度演奏させてもらうレストランへ赴き、ご挨拶してくる。
今日も忙しい日となるだろう。

マチュピチュの続きのお話

広大な遺跡にほとんど雑草が生えているのを見かけない理由の一つ
放し飼いにしているリャマ?がそれを食べているそうな。
この稿2008年2月10日記す)

35、コカの葉


大体、ケーナ作り作業中はラジオをつけっぱなしにして聴いている。

今日はボリビアの駐日大使が生出演していた。
外交官出身でなく、民間出身で、モラレス大統領の推挙により就任したのだという。

司会者が「では何かボリビアの音楽をご紹介ください」というと、大使は「モラレス大統領の選挙戦の時使った曲、広く歌われた曲で、、」といった。
作業の手を休め、ラジオに注目すると、果たしてケーナの心地よい響きに続き、のりの良い歌が流れてきた。モレナーダだった。
「あなたと一緒に」という意味の曲で、「トゥパイ」の演奏と紹介された。

日本では直接、総理を選挙するという制度がないので、ちょっと乱暴だが、昔都知事選挙のM陣営の応援ソング「広場とぼく等と青空と」(歌声サークルおけらさんのサイト・http://bunbun.boo.jp/sub4_index.htmで歌詞と楽譜が確認できます。MIDI演奏も。当該サイトの左目次で検索ください。)が懐かしく思い出される。

ちょっと脱線したが、「トゥパイ」の演奏するモレナーダといところが、ボリビアらしいというか、モラレス大統領らしいというか、そういう曲を紹介する大使(日系2世の方)らしい。

因みに、モラレス大統領はコカ栽培農家の出身だという。

このコカの葉は、大体ホテルのロビーに、お湯が入ったポットともに常備されていて、誰でも飲める。コカ茶として(画像ご参照)


高山病に効くとかで、同行のT君は欠かさず飲んでいた。(私は気が向くと)
味はハーブーティーの少しにがいやつといった感じ。微妙に覚醒作用があるのか、さっぱりする気がしないでもない。でも、そういうことって日本茶にもある気がする。飲むとすっきりするというところが。


この稿2008年2月15日記す)

36、ペルーのチョコレート


息子の引越しで、大分疲れたのか、カミサンは昨日から「静養」で福島の田舎へ里帰り中。
娘と二人だけなので、夕飯は待ち合わせて、近所の焼き鳥屋さんへ行った。
カミサンゆずりか、娘はカクテルを飲んでもへっちゃらのようだった。

少しづつ、旧息子の部屋をフォルクローレ資料室にするべく、グッズを運び入れ中。

月刊「中南米音楽」誌、1969年9月号から、1983年3月号までのバックナンバー(少し欠号あり)を並べた。因みに1983年4月号から現「ラティーノ」に名前が変わる。

続いて、フォルクローレのCD約450枚(いつのまに随分と集まったものだ)を整理。とりあえず、コンフント名・50音順で並べたが、(どのCDに何の曲が入っているか、またはその逆は一切分からなくなってきていて)、全貌はよく分からない。参考音源探しはいつも困る。

1970年代のフォルクローレLPレコードの整理(ダンボール2箱)は時間切れで手付かず。

こういう部屋に一晩寝ると、ケーナの超絶のテクニックが身についていたなんてことになればいいのだけれど、、、、。

逆に昨日はそばでネコが寝ていて、朝4時にご飯頂戴と起こされ、寝不足。
なんか、一晩中、ペロペロ舐められていたし。

整理をしていたら、昨年のペルー旅行の時のお土産のチョコレートが出てきた。
一人、しみじみと味わう。
濃厚、こってりアメリカのハーシーに似ている。

画像サンポーニャは先日の「みんなちがってみんないい」で求めた、ペルーAイマラ。
標準装備で黒いソフトケースがついてきた。

アワヨでなく、黒というのがペルーの特徴?
大体において、ペルーのケーナは巻き糸は黒で、3色テグスを巻いたのはないようだ。

「プラザ・デ・ドス・デ・マイヨ」(5月2日広場)通りの楽器店街で買い求めた(日本で言うところの御茶ノ水の楽器店街)ケーナは全てこの黒い巻き糸だった。

3色テグスはボリビア国旗の色だからだろうか?
この稿2008年5月29日記す)

37、南米バンブーの古竹


先ほどアップした管のこと。

これは南米材における「古竹・こちく」かなと思っています。いい具合に内外壁とも古びた感じでエイジングしています。音色は低中音は鼻にかっかたような(あくまでいい意味です)艶っぽくソフトな感じ。高音は一転キリットした感じです。

私の乏しい経験で恐縮ですが、現地で2箇所ほど(ボリビアとペルー)南米材バンブーが生育しているのを見たことがあります。大部分は緑色でしたが、なかに茶色く変色したのもありましたから、多分これは私が勝手に名づけて言っているところの「古竹」なんでしょう。

大部分の方は「立ち枯れ材」と呼んでいるようですが、枯れて朽ち果ているという「負」のイメージが強い気がします。

私は、もっと前向きにその竹が生育した年月を内包した「エイジング」と捉えたいと思います。実際、倒れてしまっているのもありますが、まだ根がついていて、多分このシーズンでお仕舞いというのもあります。

画像はクスコからインカ道を通り、マチュピチュへの入り口にある「インティプンク」遺跡(太陽の門)そばでみつけたものです。

左手に根がついていますが、倒れてそんなに時間はたっていないようでした。
とにかく節間が長かったです(140センチくらい)。ハッチャケーナ・ママケーナ(LowG管)が作れそう。

よっぽど持ち帰ろうかと(古竹で倒れこんでいるのだから)思ったのですが、マチュピチュは特別保護区ですから、泣く泣くあきらめました。

この稿2008年7月16日記す)


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